若狭湾でフクシマを思う
相手の手口を知る
「1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する
2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む
3、被害者同士を対立させる
4、データを取らない/証拠を残さない
5、ひたすら時間稼ぎをする…」
これは、日本で「くに」が福島原発事故の被害者に対してとっている手口の一例だ。
列挙するのは、京都を拠点に20年以上前から原発反対運動に取り組んでいるNGOグリーンアクションの創立者で代表のアイリーン・美緒子・スミスさん。曰く、国のやり方は、工場排水に含まれるメチル水銀が原因で1956年に最初の例が発覚した水俣病の場合と全く同じ。
非 常に若くから著名なアメリカ人写真家で後に夫となるユージン・スミス氏の片腕となり、二人で九州の水俣に移住、この公害病の実態、企業の犯罪と被害者の苦 悩を世界に知らしめたアイリーンさん以上に、二つのケースの共通点について的確な指摘をできる人はおそらくいないだろう。1950年、東京生まれ。アメリ カ人を父、日本人を母にもつ。
彼女の手口リストは続く。
6、被害を過小評価するような調査をする
7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる
8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む
9、海外に情報を発信しない
10、御用学者を呼び、国際会議を開く (毎日新聞2012年2月27日 東京夕刊から)
最後の点に、思わず失笑する。学会ではないけれども、昨年12月15日から17日に福島県郡山市で日本政府が主催し国際原子力機関(IAEA)が共催した「原子力安全に関する福島閣僚会議」を思い起こさずにはいられないからだ。
「117 の国及び13の国際機関、46の国・国際機関から,閣僚・国際機関の長を含むハイレベルが参加」(外務省)した会議の成果物は、市民社会の危惧した通り、 被害者の実情に即した要望には耳を傾けず、ひたすら自画自賛し現状を過小評価するものだった。それが、国際原子力機関のお墨付きで行なわれたのだ。
ス ミスさんは、「福島原発事故の教訓の一つは、原子力を推進する当局と規制する当局は分けなければならないということだった。日本政府は、国内では推進と規 制を分けたのに、国際的権威を利用したいときには原子力の推進と査察・視察が分けられていないIAEAを容認、その助けで福島原発事故を過小評価しようと している」と、日本政府の矛盾した姿勢を批判する。
2012年12月18日同志社大学でポール・ガンター氏の講演を企画し
司会兼通訳を務めるアイリーン・美緒子・スミスさん (筆者撮影)
「分割して統治せよ」
「あら、まだ福島にいるの? えっ、子供たちも? 大丈夫なの? どうして、早く逃げてこないの?」
も ちろん善意で発せられるにせよ、このようなせりふほど、様々な事情で福島に残っている人たちにとって辛いものはないという。すでに抱える子らに対する罪悪 感をさらに痛感させられ、繰り返し聞いているうちに、精神的な自衛手段から、マスクをするのも、線量を気にするのも、ついには考えることそのものもやめて しまう。あたかも何も起こらなかったかのように。
衝突はしなくても、避難した人としなかった人、被害者同士で口論になったり、遠慮し疎遠になったり、わかりあえなくなったりするケースが、時とともに増えていく。事故までは、お互いにうまくいっていた人たちなのに。
ま た、放射能を逃れて避難したのは、きっと経済的に余裕のある人たちなのだろうと想像しがちだが、実はそうでもないらしい。多いのは、なんとシングルマザー のケースだとか。親戚などのしがらみから自由で、持ち家や安定したいい仕事など、失うものがないからだと聞いて、なるほど、と頷いてしまう。
そうこうするうちに、政府や自治体は、避難者への支援の中止を宣言し、ふるさとへの思いにつけこんで、帰還を急かせている。除染の努力の甲斐あって、線量も下がってきているのだから、もう安全、というわけだ。そうした国の姿勢を、国際原子力機関は承認した。
それでも、福島の地元紙が最近行なった世論調査によれば、県民の4人に3人は県内の原子炉6基を「全て廃炉にすべき」だと考えているという。(福島民報2013年1月6日)
と ころが、私たちには至極当然にもみえるこの結果も、先月誕生した日本の新政府の考え方とはいささか異なっている。新内閣の閣僚からは、早速、2030年代 に脱原発を実現可能にするという、散々議論を重ねた末に、ようやく昨秋提案された前政権の方針を白紙撤回しようとする発言が相次いでいる。
そ して、この方向転換を歓迎する県もある。60足らずキロの区間に14基の原発を抱える福井県だ。西川県知事は、年始の記者会見で、安倍政権による30年代 の原発ゼロ目標を見直す現実的な施策への転換に期待感を表明し、「原子力は資源の乏しい日本にとって重要な電源」と県の考え方をあらためて強調。古い原発 の廃炉の考え方や新増設などの戦略を明確に示した上でエネルギー政策の方向性を打ち出すよう求めて、原子力規制委員会の調査団が日本原電敦賀原発の敷地内 断層は活断層の可能性が高いとの判断を示していることに関しては「単に少人数の関係委員だけでの議論では済まされない」と指摘した。(福井新聞2013年 1月5日)
原子力の罠にはまった福井
それにしても、なぜ、福井は福島原発事故にもかかわらず、原子力に固執するのだろうか。
その理由を理解する上で、現地を訪ねてみるのはいくらか役に立つかもしれない。
福島県は、面積4000km2に人口80万余りが住み、福島第一原子力発電所からは約500キロ離れている。古都京都の北に位置し、日本海に面していて海の向こうに朝鮮半島を臨む、いわば日本の古い玄関の一つ。
今回の訪問は、東京在住のフォトジャーナリストで福島原発事故についても多数の著作がある豊田直巳氏に同行、地元の「プルサーマルを心配するふつうの若狭の民の会」の石地優氏に車で案内していただいた。
2012年も残すところわずかとなった暗く寒さの厳しい日、敦賀駅から出るなり雪と雨の混じる風に帽子を飛ばされそうになる。
「この辺りは、冬は、いつもこんな感じの天気なんです」
あいにくのお天気だ、というこちらの表情を即座に読みとってか、すぐに石地さんが言う。
最初の訪問地は、敦賀原子力発電所に隣接する敦賀原子力館。
敦 賀原発には、廃炉になった「ふげん」を含め、3基の原子炉がある。安全をアピールする情報に溢れ、面白そうなゲーム機器も並ぶ(学校見学などが多数訪れる のだろう)原子力館からガラス越しに見える一連の建物は、最近、ペンキを塗り直した甲斐もあって、やけにきれいで整然としている。ところが、実は、1号機 は世界で最も古い原子炉の一つ。最初の稼働からすでに43年が経過し、2009年には廃炉が予定されていたものの、新規原子炉2基の建設着工が遅れている ために、まだ引退できずにいるのだ。
そうこうするうちに、最近、原子炉直下に活断層がある疑いが強まり、発電所全体の将来が危ぶまれている。ホテルや民宿などのサービス業をはじめ、原発を中心に経済が成り立っている地元の状況は、極めて厳しい。
「動かせるのか、廃炉にするのか、先が見えない今みたいな状態が一番困るんです」と石地さん。
だったら、すぐ廃炉にすればいいのに、と単純に思う。
「廃炉に決めれば、廃炉の仕事が入りますよね、三十年とか五十年とかかかるわけだから。保証されるし、その間に代替の産業だって開発できるでしょう」と豊田さんも言う。ところが、そう簡単には問屋が卸さないらしい。
「廃炉になれば、その仕事があるし、再生エネルギーに転換すれば、そっちだってあるということは、理屈ではわかっても、やっぱり廃炉になった時に、具体的に自分たちにとってどういう仕事があるのか、職種も規模も不透明で見えていない。だから、今ある状況を何とか維持したいと思ってしまう
んです」。
そう言って、石地さんは、若狭湾に最初に建てられ、原発銀座の起爆剤となった敦賀原発の歴史について話してくれた。
「今 来た道、あんなにいい道、昔はなかったんです。急病とか、何かあった時には船で行かなきゃならなかったのだけど、船は天候によっては無理でしょ。だから、 道路がここに原発を受け入れた地元の悲願だった。行政に見捨てられているところだから、いいとは思わなくても、やっぱり応えてくれた電力会社には、ありが たいという気持ちがあるんですよね」。
電力会社は表向きはペコペコするが、仕事に関してはピラミッド型で威張っているので、地元の人た ちの間では決して評判がよくないという。それでも、行政が国も県も市も何もしてくれなかったところでは、何かしてくれる相手には、どうしても恩に着てしま うというのは、想像に難くない。
敦賀原子力館見学のあと、原発の裏側に回り、3号機、4号機の建設予定地に行ってみる。何軒か、閑古鳥の鳴く民宿が霙交じりの肌にヒリヒリあたる強風にさらされている様は、身につまされる。
果たして、ここに原発が建つ可能性は、まだあるのだろうか。
「最 初、電力会社は、色々なところに顔を出して、たとえば、祭りがあれば、お金を提供したり、できるだけ溶け込もうと、やけに細かいところにまで気を回してい ました」という石地さんの説明に、豊田さんがすぐコメントする。「ああ、侵略されたんじゃなくて迎えたというふうに見せるためにやる軍隊の宣撫工作と同じ ですね」。
また、地元の若い女性にカードを送り、お土産付きのパーティーに招待して関電の若い社員と出会わせる「合コン作戦」も。「そこでカッ プルができれば、結婚した娘さんはもちろん関電の考え方に従うようになるのだけど、それだけが目的じゃなくて、そこの親類縁者すべてが、内心はいやでも関 電を表向きは支持する側にまわるでしょ。そうやって反対の声が出せないようにするんです」。
他にも、文化事業やコンサートなど、様々な形でお金をつかい、それまであった地元の生活を滅茶苦茶にしたそうだ。
再び車に乗り、次の目的地に向かう。敦賀半島の東側から西側へ。ただし、今、来た道路を半島の付け根まで戻り、別の道をもう一度度北上することになる。
敦賀への誘致は、県がまず一生懸命になり、適切な場所として敦賀に白羽の矢を立てセットした上で地元の議会にかける上からの決定だったそうだ。
それに対し、高浜、美浜、大飯の場合は、いずれも敦賀の前例を見て、交付金をはじめ、大金が
入ってくることに納得、恩恵にあやかるために自治体が名乗りをあげるようになったという。
かくして、1966年の敦賀原発着工に続き、1967年8月21日には、大阪の「万国博覧会に原子の灯を」を合言葉に美浜の1号機が着工。1970年代初めから76年にかけて1,2,3号機が次々に運転開始した。
一方、高浜原発一号機「アトムくん」の着工は、1970年4月(2号機の「ウランちゃん」は翌年2月、3、4号機「みらいくん」と「あかりちゃん」は、ともに1980年12月)、74年から85年にかけて順番に商業運転を開始している。
次いで着工、運転開始したのが、新潟県の柏崎刈羽原子力発電所に次ぐ日本第二の規模、関電管内最大の出力を備え、現在日本で稼働中の唯一の原子炉二基がある大飯原発だ(着工1972年~87年、営業運転開始1979年~93年)。
そして、最後に建ったのが、これから行く悪名高い「もんじゅ」だった。
敦賀半島の西側の「もんじゅ」に着く前に、突然、美浜原発が視界に現れる。丹生の海水浴場の正面、島のような場所にベージュにこげ茶の横縞が一本入ったプラントが浮かんでいる。
海 外から訪れたジャーナリストなどが「クレイジーだ!」と叫ぶ場所らしいが、漁業組合、ハマチやタイの類の養殖場、そして小学校が目の前に並ぶ。まさに安全 神話を信じようとした様をまざまざと実感できる環境だ。雹の降る中、中学生が数人歩いている。彼らにとっては、生まれた時からある、当たり前の風景なのだ ろう。
「金山でもありゃ、原発なんて、いらない」
美浜原発の前で内陸に向かい北東へ。立派な道 路のトンネルをくぐり、左は白木、右はもんじゅと書かれたT字路を左に折れる。ここは、再び敦賀市。同じ半島の先の山の向こう側にある敦賀原発との直線距 離はわずか10キロなのに、高速増殖炉「もんじゅ」には美浜町からしかアクセスできない。なぜ、向うから道路を延長しなかったのかしら。
白木は、15戸の小さな漁村だが、入口には立派な寺が、また集落の奥にはこぎれいな神社が建っている。あまり古くない瓦葺の立派な構えの家が並ぶが、 ちょうどお昼の時間帯のせいか、人影は見えない。ここでも入江の向うに「もんじゅ」が鎮座まします。(思わず、「お願いだから、大人しくしていてね」と手 を合わせたくなる)。
白木の浜から「もんじゅ」を臨む。つかの間の晴れ間に遠望できる対岸は福井嶺北
防波堤も、湾にのぞむ斜面に建つ原子力機構のいくつか建物も、堂々たるもので圧倒されるが、考えてみれば、どれも本質的に国民の税金と市民が払う電気料金でできたしろものだ。
「ここも、敦賀市からは見捨てられていて、道も作ってもらえなかった場所です。白木の区長をしていた人曰く、もんじゅの話があった時には、すでに敦賀と美 浜の原発があった。その真ん中に位置しているから、何かあったら、結局一緒になる。どっちにしても自分らにとっては危険なもので、止められるわけでもな い。だったら、いっそのこと、安全を信じてもんじゅを誘致する、と」
そういう石地さんに、豊田さんもうなる。「自分がそのときにここにいたら、そう思ったでしょうね。
ぼく、自分が賛成にまわったんじゃないかって、積極的賛成かどうかは別として、じゃあ、どうする
んだよ、ってことになる。・・・いやあ、こりゃ、間違いなくぼくも受け入れただろうね…」
「もんじゅ」ができる前にここの人たちが言ったせりふで言い伝えられているものがあるという。
「金山でもここにありゃ、そんな、原発なんてもん、選ばんわ。何もないさかい、これ、えらばにゃならんことになる」。
ここをはじめ若狭湾はサーフィン愛好家に好まれる海で、再稼働前には脱原発運動に熱心な俳優の山本太郎さんが若い仲間たちを連れて来てくれたこともあるそ うだ。また、環境保護国際NGOグリーンピースも、地元の反対運動に若い人たちのエネルギーを取りこむ力を貸してくれているらしい。
「グリーン ピースは地元に事務所も構えたのだけれど、独自のことはしないで、地元でこれまで活動してきた人たちを優先に、その人たちがまずいと言ったことは取り組ま なかった。いくらでも勝手にできただろうに、そういう姿勢でしてくれていたので、ありがたかったです」と石地さん。
「原発抜きの道」を勝ち取った小浜市の孤独な戦い
そういう石地さん自身は、長年、地元で原発に反対していない人たちとの対話活動を続けている。
こちらの言い分を言うのが主ではなく、聞くのを主にした活動だという。
「若狭の地元で今でもはっきり反対しているのは、ほんの数人です。でも、ちゃんと残っている。
負け続け周囲から変わり者だと思われれば、だんだん嫌になり気持ちも落ち込んできても当然
でしょう? それが、そうならなかったのは、僕の場合は、対話をしていたからです」。
もし、住民が本当に原発賛成だったなら、話など聞かずに玄関払いされてもおかしくないが、
そのようなケースはほとんど経験していないという。
「僕が続けていられるのは、相手から嫌われることもなく、お互いの気持に通じる思いがたくさんある
ことがわかったからです。でも、その気持ちが、福島の事故の前後で変わったかというと、それはないですね。」
今年(2012年)も、大飯原発再稼働をめぐり、チラシを各戸に配るだけでなく、その家の人と話を
する活動をずっとしてきた。
「地元の人は、話はしたいんです。不満を抱えているから。親兄弟や近所とは、表向きの話は
できても、本音の話はできない。それが、直接利害関係のない全然知らない人とはできるんですね。
深くものを考えている人も、たくさんいます。福井県は、県民が80万人いますが、原発増設反対のための草の根署名で 20万筆が集まった実績もあるんですよ」。
考えなきゃいけないと思っている人はかなりいる。自分たちで考えを変えていかなければいけないが、原発をやめて一番困るのは町民、県民ではなくて、交付金を失う自治体だろう、という心配が多くの人たちにとってブレーキになっている現実がある。
実際、福井県知事の場合ですら、依存を生み出しているのは、原発そのものよりも金であろう。
2010年度に福井に支払われた電源三法交付金215億円余りのうち、県は4割以上(累計では
6割以上で、立地嶺南の自治体は半分以下)を受け取っているのだから、切実だ。
まるで、道路や福祉や雇用は、原発と引き換えでなければ得られないと言わんばかり。
[資料:福井県 電源三法交付金の概要PDF]
もっとも、同じ若狭湾に面しながら、原発になびかなかった自治体もある。美浜町とおおい町の間に位置する小浜市だ。人口約3万人。奈良時代から古都と朝鮮 半島とを結ぶ港町として重要な役割を果たし、名刹も多い杉田玄白誕生の地だ。近年では、柄物の塗箸の産地と食のスポットとして知られている。
周辺の自治体が次々に原発立地になる中で、なぜ、小浜市だけは、あの手この手を使った電力会社の度重なる懐柔作戦にも屈せず、誘致を断念させることができたのか?
石地さん曰く、40年ほど前、高浜や大飯の誘致と同じ時期に誘致の話がもちあがった。最初は、県議会も町議会も市長も誘致派だったが、賛成派と慎重(反 対)派の二つに分かれていた漁協の慎重派のリーダーが、福井県選出の国会議員のところに行き、「もし、あなたのところに原発を誘致することになったら、ど うしますか?」と聞いて、「やっぱり嫌だ」という答えが引き出せた。そこで、「そうなら、わたしらも嫌なんで、ちゃんとした道さえ作ってくれれば、原発な くても大丈夫、わたしらやっていけます」と言って、小さな道を県道に昇格させた。
「もちろん、それだけではなくて、議会の傍聴などにもしっかり 行って、最終的には署名を集め、半数以上の反対を集めることができたんです。でも、それでも、議会は誘致派のほうが多くて賛成しましたが、結局は、最終的 判断は市長が、市民がこれだけ反対していることをするわけにはいかないと言って断念しました」。
さらに、10年後、再び話が浮上した時にも、市長が反対。
また、つい最近には、使用済み核燃料の中間貯蔵地の誘致話が持ち上がり、賛否両方の署名を集めた。反対は1万3,4千、賛成は3,4千だった。
「市長はもとは誘致派だったんけれど、中間貯蔵はしないという公約で選挙に勝った。
結局、三度にわたって市民の判断が議会を動かして、反対が決まったんです」。
美浜から小浜に向かう道中、石地さんがこれらの説明をしてくれているさなかに、カー・ラジオから地元のニュースが流れる。
「・・・ 大飯原発では明後日からまた国の原子力帰省員会による追加調査に入るなど、福井ではここ1年の締めくくりも大飯原発のニュースとなりそうです。まず、今年 最初の大きな動きは、再稼働についてでした。関西電力が持つ11基の原発のうち、最大の発電量をもち、全国で最も早くストレステストの審査が進んでいたの が大飯原発です。稼働しなければ、夏の関西圏の電力が大幅に…」
そういえば、この再稼働の動きに対し、小浜市議会は昨年6月、「原子力 発電からの脱却を求める意見書」を全会一致で可決したというニュースがあったのを思い出す。それもそのはず、この原発は、おおい町よりも小浜の市街地のほ うにずっと近くて、こちらのほうが実質的な地元なのだ。その近さは、間もなく私自身が現場で実感することになる。
かつて古都、奈良、京都の朝鮮半島に面した玄関だった小浜 韓国の遭難船救助の記念碑
福井県民の原発に対する複雑な思い
建設当時にはかなり強い反対運動も起こり、その後も原発に対する不信感がなくなったわけではなく、今でもなぜここにばかり原発が集中しているのか、不満に思う人は少なくないという福井。
ただ、原発は、一旦建ってしまうと、他の状況が想像できなくなり、思考停止、考える力の喪失に陥ってしまうらしい。現実に事故が起きるとか、世の中に新し い風潮が生まれるなど、置かれている状況そのものが変わらない限り、変化に向けては動きが取れない。ドイツの再生エネルギーへのシフトの成功例を挙げるな ど等、理念で変えることは不可能だというのが、石地さんのもつ印象だ。
「同じ原発立地の知事でも新潟の知事は対応が全然ちがいます。根本は何かと いうと、僕は中越地震だと思うんです。あれを経験したので、新潟は慎重になったけれど、福井の知事には具体的に感じる部分がない。同じ原発がたくさんあっ て、それで行政をまかなってきたのにもかかわらず、二つの県ではちがうんです。福井の知事は、地震は心配だけれども、明日明後日来るわけじゃないと」
福井県庁前での反原発集会(2012年3月)
では、どうすれば、「第二のフクシマ」を実際に体験することなく、福井の状況を変えることができるのか。他山の石とするのは、はたして不可能なのだろうか。
「考えるきっかけになるのは、やはり防災計画かな、と思います。あれは、賛成派も反対派も必要ないっていう人はいないから」。
石地さんの意見に、豊田さんもすぐ賛成する。
「30 キロ圏の避難計画にのっとって、実際に全員参加の訓練もやるべきですよ。30万人でやってみれば、本当に訓練でさえできないと思う。訓練ができなければ、 本番では死ぬんだっていうことです。そもそも30万人が動いたら、今、走っているこの道路(この地域唯一の幹線である国道27号線)は全部止まっちゃう。 その間に子供は全部浴びますよ。うちのおばあちゃんは、どうする? タクシーを呼ぼうか。えっ、タクシーが来ると思ってるの? ああ、そうか、やっぱりだめだ、ということになる。一方、ラジオで、今、何ミリシーベルト、何ミリシーベルトって伝えれば、実感はわくでしょ。ヨウ素安定 剤も全員配って、飲まなくていいけれど、飲み方を訓練する。そして、「さあ、ヨウ素剤をすぐ飲んで下さい」って放送すると、どうせ、「オレ、持ってねえ よ、どうしよう!?」って言うのが出てくるよ。まだみんな他人事で実感がないのだとすれば、こうやって訓練の体験の中で、一つひとつ全部点検していくしか ないでしょう。釜石では津波の実戦訓練をしていたおかげで、子供たちが助かったんです。だから、やることに意味はある。そして、訓練の後、避難は一時じゃ なくて、30年はこの家に帰って来られないんだよって、気づくと思う」。
小浜市内で昼食をとった後、今日の最後の目的地、大飯原発が見える場所へ向かう。
このあたりは道の両脇にのけられた雪の量が敦賀よりずっと多い。小さい船がたくさん停泊するリアス式海岸沿いと田んぼの中を走って岸壁の前で舗装道が行き止まりになった地点で車をおりる。
つい先ほど、「韓国船救護記念碑 ~海の民の出会いは国境を越えた」と書かれたモニュメントの前を通りかかった時には日がさしていたのに、ここでは打って変って霧が出そうな気配、辺りは薄暗い。まるで見る対象を反映したような空模様だ。
「あっ」
こんもりした山の岬が左右から突き出す外海の見えない山中の湖のような湾の、対岸の岬の陰から丸屋根の白い筒状の建物が一つ半のぞいているのに気づく。「そう、あれです」と石地さん。
それにしても、なんという距離の近さだろう。湾の奥に建てられた敦賀半島の原発が、敦賀市よりも遠望できる嶺北(福井県の北半分)の住民にとって脅威に感 じられるのと同様、この原発も、立地こそおおい町だが、実際に共存を強いられているのは、一貫して原発に反対してきた小浜市であること、そして、住民の不 安が身にしみてわかる。なるほど、百聞は一見にしかずとはこのことだ。
この日訪れた4か所の原発のうち、私にとっては、やはりここが最も背筋の寒くなる場所だった。
記憶の力:いかにして、過去と現在と未来を繋げるか
福島と福井。
非常に似通った点がありながらも、まだ大きな隔たりをもつ二つの現実。複雑で一刻を争う課題を山ほど抱えた前者と、二の轍を踏まぬためには早急に過去から学ぶ必要があるのに、まだまどろみの中にいるように見える後者。
この二つのケースを前に、水俣病患者と原発災害の被災者に対して国や行政がとった態度について、アイリーン・美緒子・スミスさんが挙げた共通点が改めて思い浮かぶ。
過去の公害問題と原発問題の酷似性の指摘は、福島第一の事故後、度々耳にした。
「原 発訴訟は、公害訴訟の延長だ」と主張する近藤忠孝弁護士もその一人。水俣病とともに日本四大公害病に挙げられる富山のイタイイタイ病(富山県、神通川上流 の鉱山からたれ流されたカドミウムが原因)の弁護団を率いて、1972年、公害病訴訟史上初めての勝訴を勝ち取ったことで知られる。
80歳を超 えた現在は、原発訴訟に余生を捧げる決意をし、いわき市に通う傍ら、地元の京都でも大飯原発差し止め訴訟をめぐり、原告一万人を目指して闘う。ちなみに、 京都はスリーマイル島の被害(避難地域)を基準にいうと80キロ圏内に入り、北風が吹けば、滋賀県ともども放射能の直撃を受けかねない実質的な被害「地 元」なのだ。
若狭湾の原発に脅威を感じる京都の市民デモ(2011年6月)
「日本では、明治維新以来、公害訴訟の敗北の歴史が、百年続いていたんです。足尾銅山で田中正造がずいぶん頑張ったけれども、いつも結局は、資本と権力の 力に抑えられてきた。でも、イタイイタイ病の勝訴を機に、新潟水俣病、四日市でも勝利を収め、流れが変わりました。水俣病は、地域が広くて、被害者が孤 立、対立していたから、一番難しかったけどね」
一方、原発訴訟は、近藤弁護士も言うとおり、「まだ、負け続けている」。しかし、まさか、勝利ま で何十年も待てるはずがない。歴史から、他山の石から学ぶことで、何とかその時間を短くはできないものか。イタイイタイ病訴訟が公害訴訟の歴史の流れを変 え得た勝因は、何だったのか。
弁護の依頼を受けた時、近藤弁護士は、このままじゃ、負けると思ったという。そこで、家族を連れて富山に 移住。一つには、地元では、会社(三井金属鉱業)はお上なので、だれも引き受けようとする弁護士が現れなかったからだ。遠慮の要らない「よそ者」であるこ とが、一つの強みだった。被害者の人々の間で生活し、とことん話を聞いた。
もう一つの強みは、マスコミとの関係だったという。
「会 社が控訴した時、マスコミは、本当に怒りを込めた批判記事を書きましたよ。ぼくたちの行く飲み屋と新聞記者たちの行く場所が同じだったんでね、彼らとはよ く話をしたんです。会社側の弁護士は東京にいて、地元の人は一人だけ。飲み屋で会ったことないところを見ると、きっと他所に行っていたんだね」と笑うが、 実際、負けた会社側の社長は、「近藤のマスコミ作戦に負けた」と認めたらしい。
イタイイタイ病訴訟の歴史には、企業の命と人権の軽視といい、御用学者の破廉恥な言動といい、福島を取り巻く現状と重なりあうところが決して少なくないようだ。
そして、勝訴の後には、長い後始末が待っていた。ようやく県の事業で行なわれた田んぼの除染が完了したのは、法的な決着がついてから40年を迎えた昨年のことに過ぎない。
「イタイイタイ病の学者が集まって除染を始めた時も、最初に考えたのは捨て場でした。でも、空き地の多い富山ですら、誰も引き受け手はいませんでした。重金属のカドミウムでさえ引き受け手がなかったのに、
その何十倍も恐ろしい放射能なんかの引き受け手が出てくるはずがありませんよね。だから、すごく時間がかかるでしょう」。
そう言う近藤弁護士だが、必ずしも将来を悲観しているわけではなさそうだ。
「そ れでも、イタイイタイ病のカドミウム汚染は、40年間かかって、本当に田んぼがきれいになったんです。その間、三井金属から会社も変わり、社長も何代も入 れ替わっています。そして、最初は険悪だった会社との関係も徐々に協力的になり、挨拶代りに叱ってばかりだった私も、段々企業の努力をほめるようになりま した。私はよく言うんだけど、被害者の目、科学者の知恵、企業の努力、この三つが揃ってはじめて公害がなくなるのは、歴史的な教訓だと思います」。
福島原発災害の被害者たちが引き裂かれ対立されつつある現状に胸を痛めるスミスさんも、切に願っている。福島の人たちには、水俣の時のように50年も苦しみ続けるような目にだけは絶対に遭ってほしくない、と。
私たちも、そのためには何ができるのか、ともに考えなければならないだろう。 (完)
命ある限り・・・(避難区域にあるにもかかわらず、牛を殺さずに世話を続けている福島・浪江町の吉沢牧場)